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第一章 第3話 水鏡の死体③

Auteur: 葉月うみ
last update Date de publication: 2026-06-11 15:44:05

「何かを起こそうとしているのですね……」

 雨音に紛れるほど、小さな呟きだった。けれど、ルシアンの耳には確かに届いていた。

 セレネはまだ水面を見つめている。揺れる水鏡。雨粒が次々と落ち、波紋が幾重にも重なって、新しい紋様が古い紋様を押し潰し、また別の雨粒が落ちて、ひと時も平らに戻らない。先ほど、確かにそこに映って見えた女の姿は──もう、どこにもなかった。

 錯覚だったのか。

 そう思おうとしても、背筋に残る寒気が消えない。外套の襟元から、いつのまにか冷たい水が一筋、首筋を伝って背中へ落ちていた。皮膚を伝う雨の温度よりも、もっと内側、肋骨の奥のあたりが、ひとり冷えていた。

「何が起ころうとしている」

 ルシアンは思わず声が漏れた。広場では騎士たちが、死体を覆う布を運び込むために、ぬかるんだ石畳の上を行ったり来たりしている。靴底が泥を擦る音、抑えた指示の声、ランタンの油が燃える微かな匂い。普段なら気にも留めない音と匂いが、今夜はやけに耳の縁に残った。

 セレネはすぐには答えなかった。指先で外套の裾を軽く絞り、雨粒を石畳へ落とす。彼女が動くたびに、雨に濡れた黒髪の毛先から、しずくが等間隔で滴った。落ちる速度、落ちる場所、その全部が、誰かに決められた振付のように整っている。

「殿下」

 いつもと変わらない、抑揚の薄い声だった。

「今夜のことは、できるだけ伏せていただけますか」

「怪異騒ぎを避けるためか」

「ええ」

 セレネはようやくこちらを向いた。雨粒が、彼女の睫毛の縁で一度だけ震えて、頬を伝っていく。それなのに彼女は、目を細めも、瞬きを増やしもしない。雨に怯む人間らしい反射が、その顔のどこにもなかった。

「人は恐怖を与えられると、見なくていいものまで見始めます」

 ルシアンは少しだけ目を細めた。

「まるで、怪異を知っているような言い方だな」

 セレネは否定しない。ただ、ほんのわずか、視線を逸らした。それだけで、胸の奥に小さな違和感が残る。彼女は昔から、時々こういう顔をする。自分だけが違う世界を見ているような──そんな顔だ。

 雨脚が、わずかに強くなった。広場の隅で、夜会帰りの馬車の馬が短くいなないた。御者が小さく宥める声がする。湿った藁の匂いが、馬車の足元から立ち上ってきた。

「……殿下」

「ああ」

「この事件、一人では終わらないかもしれません」

「連続殺人だと」

「まだ、分かりません」

 そう言いながら、セレネは再び死体を見下ろした。雨に濡れた指で、男の襟元を、ほんの少しだけ整えるように触れる。動作には、奇妙な敬意のようなものがあった。ただし、生きていた頃の男に対するというより、これから運ばれていく一片の「物」に対する敬意だった。

「ですが、これは見せるために作られた死体です」

「見せる」

「ええ」

 海色の瞳が、ランタンの火をひとつだけ呑み込んで、静かに細められる。

「これは、恐怖を広げるための死です」

 雨が、石畳を静かに叩いている。広場の外周では、足止めされた貴族の馬車の車輪が、低く軋んだ。誰かが扉の隙間から、こちらを覗き見ているのが分かる。けれど誰も、声を上げて尋ねようとはしない。

「噂は人から人へ伝わる。怪異の話は、恐怖と一緒に広がります」

「だから、怪異に見せかけたのか」

「おそらく」

 セレネはもう一度、死体の指先を見た。指輪の内側、印章の細かい刻みの中に、ほんのわずか、暗赤色の何かが残っていた。雨で洗い流される直前の、最後のひと粒。けれどセレネは、それを拭い取ろうとはしなかった。ただ、見ていた。

「ですが、少し気になりますね」

「何がだ」

「これは、何を目的とした殺人なのでしょうか」

 ルシアンは眉を寄せた。

「どういう意味だ」

「水鏡の魔女、という怪談に合わせるためだけなら、ここまで異常な死体に仕立てる必要はありません」

 セレネは静かに立ち上がる。濡れた外套の裾が、ふわりと重く揺れて、足首の周りで小さな水音を立てた。

「まるで、犯人自身が本物の怪異を信じているみたいです」

 その一言に、近くで聞いていた騎士たちが、目に見えて青ざめた。

「や、やめてください」

「……縁起でもない」

 古参の騎士の一人が、雨の中で短く印を切るような仕草をした。手袋の指先が、震えていた。

 セレネは彼らを見ない。ただ雨に濡れる噴水を見つめている。雨は彼女の睫毛にも、唇の縁にも、確かに落ちているはずだった。それなのに、その白い顔のどこにも、雨に怯む人間らしい反射がなかった。瞬きの回数も、息の白さの間隔も、騎士たちより、明らかに少ない。

 その横顔は、相変わらず美しかった。だが、近くで見るほど冷たい。白すぎる肌。夜を溶かしたような黒髪。深い海色の瞳。月明かりで形作られた人形のようだった。社交界の人間が彼女を恐れる理由を、ルシアンは時々、嫌になるほど理解してしまう。

 誰より美しい。なのに、誰より人間らしくない。

「……帰るぞ」

 ルシアンは小さく息を吐いた。白い吐息が、雨の中に滲んで、すぐに見えなくなる。

「死体は王城へ運べ。この件は、俺が預かる」

「はっ」

 騎士たちが慌ただしく動き始めた。雨を吸った布を死体の上にかけ、四人がかりで持ち上げる。湿った布が水を含んで、ずしりと重そうに沈んだ。死体の指の一本だけが、布の端から、わずかにのぞいていた。指輪の中の暗赤色は、もう、雨に流されて見えなくなっていた。

 その時だった。

 セレネが、ふいに足を止めた。視線が、噴水の縁の外側へ落ちる。

「どうした」

 彼女は答えない。白い指先が、雨に冷えた石畳の上を、ゆっくりとなぞる。指の先が、石の継ぎ目の汚れを払うように、迷いなく動いた。

 そこには、跡があった。

 細く、長く、泥水が引きずられたような跡だった。広場の中央の噴水の方角から、街の北側──貴族街の外れの方角へと、わずかに弧を描いて伸びている。雨が強くなってきたせいで、泥の縁はすでに溶け始め、跡の輪郭はだんだん薄れていく。それでも確かに、そこにあった。指先で触れると、泥は石の表面でぬめり、革手袋を着けていない素手に、しっとりと残った。

 ルシアンは眉を寄せた。

「さっきまで、こんなものはあったか」

「……いいえ」

 セレネは静かに言った。

「少なくとも、私は、見ていませんでした」

 その声は、いつも通り冷静だった。だが、彼女の視線だけが、わずかに鋭くなっていた。雨の向こう、貴族街の暗がりへと、何かを追うように。

 ルシアンは無意識に、自分の手で、雨に濡れた外套の襟元を掴んだ。冷たかった。冷たいはずなのに、その奥にある肌のほうが、もっと冷えていた。

 雨は、まだ降り続けていた。

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